コリン堂工作ブログ

模型工作について延々と書いています。最近は木造電車や70系客車を主に作っています。 shop https://kowrinmaki.handcrafted.jp/

カテゴリ: 70系客車

前回、オハ71系3種を出力したので、組み立てていきます。

妻面は、最初はGM(グリーンマックス)のものから流用しようと思っていたけれど、どうせ編成中間に組み入れるので、手抜き仕様の妻面を同時に出力しました。

 

まずは各車の側面3層分+妻面の2層分₊ガラベンの部品を仕分けます。
次に、側面の最上層、中間層の紙の裏側と、妻面の最上層の紙の裏側にスプレーのりを吹き付けます。
そして糊が乾かないうちにこれを積層。板キット状態にします。
重しをして数十分放置して固まったことを確認した後、妻面と側面を組みます。
次に塗装。サーフェイサー+塗料で仕上げます。

とここまで一気にしてしまいます。

最後に、ケント紙ベースの屋根を乗っけて、窓セルつけてガラベンも適宜乗っけたのがこちら

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オハ70-0番台

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オハ71-500番台(スハ32種車)

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オハ71-500番台(オハ35種車)

さて、写真だとわかりづらいかもしれないかもですが、2段窓で上下の窓ガラスが面一ではないことにお気づきでしょうか?

一番裏の層を工夫することにより、ただの窓セルなのに、2段窓で上下のガラスに段差を付けることに成功しました!!

 

あと、当時の資料を読むに、こいつらが走っていた時代は客車の窓に全部ガラスが入っているということはなく、窓枠だけだったり、板を代わりにはめ込んだりしていたということなので、これも再現してみました。

 

後は台車を買ってきて床板と床下機器をくっつけるだけ、、、

早稲田祭や実験授業の関係で、長らく更新がかけられませんでした。申し訳ない

 

さて、70系客車を作ってゆきます。図面は

てつCADさん@がんばらない

にあったものをいただきました。それをトレースした後、板キットに落とし込んでいきます。

板キットは基本的にボール紙2枚+ケント紙1枚の計3枚の紙を積層して作ります。これは、強度とディティール的面から最適なものを考えました。まず、最下層のボール紙。これは必要最小限の穴だけをあけ、強度を担保させます。次に中間層のケント紙。これは窓部分においては最下層のものより少し大きめに開口させることで窓枠を表現。扉部分においては、プレス部分を開口させることでプレスドアの再現を試みます。最後に最上層のボール紙。ここは車体全体の表層を担います。強度の補完という意味もあってボール紙を使用してますが、開口部が大きいので車体強度を担わせることは考えません。その上からシルヘッダーの表現の帯材を接着。これもケント紙で作ります。シルヘッダーの厚みと強度の必要のなさから、ケント紙をチョイスしました。

 

このように板キットに落とし込み、型紙データにして、、そいつを重ねてみた図面がこちら

 

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オハ71系0番台

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オハ71-500(スハ32由来)

 

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オハ71-500(オハ35由来)

 

次回までにこいつらを出力します

 

オハ71について

 

 オハ71とは、戦災復旧客車70系客車のうち、20m級客車、又は電車から復旧された20m級客車のことを指す。全てが不足する中のひっ迫した需給状況から誕生したので、長距離乗車の乗り心地などはまったく考慮されず、ただ運べればよいという思想の元誕生しため、全車板張りロングシート、天井板なしで垂木丸出し、ベンチレーターも削減されていた。そして客車としては常識外れのデッキなし3扉仕様が基本であった。

 しかし、戦後に生産能力が復活するにつれ、このような急ごしらえの車両は運用、旅客両方から嫌われたため、早々に荷物車などの事業用車に改造されていった。その結果、数年間しか活躍期間がなく、戦後生まれのくせにぶどう色2号時代を迎えることなく消えるという可哀そうな運命をたどる。

 

オハ71には主に2種類の番台区分があった。

0番台:焼失した客車、電車のうち焼け残った台枠、台車などを利用。車体を新調した上で載せ替えたもの。板張りロング、3扉が基本であった。しかし、図面通りに作られた例は少なかったよう。

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500番台:被災具合の少なかったスハ32、オハ35系客車をもとにして改造された車両。窓割などにおいて種車の面影を強く残していた。種車がスハ32、オハ35かによって外見が大きく異なる。板張りロング、4扉が基本だった。

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両者とも、戦後の混乱期に生まれ、消えたため写真がほとんど手に入らない、、、



2018/12/29追記

70系客車の概要

  太平洋戦争中、日本は末期の連合軍による本土爆撃や機銃掃射等によって多大な被害を受けつつも、終戦時まで列車の運行は継続されていた。しかし、当時の鉄道事情は散々なもので、線路は削れたまま交換は不十分、徴兵によって熟練工は不足、本土爆撃や機銃掃射によって損傷、焼損した客車、電車はそのまま廃車手続きだけされて留置されていた。戦争中に被災し、廃車された客車は2228両にも上るとされ、これは当時の鉄道省保有の客車の19.2%にもあたる。

 戦争終結後、戦時統制が撤廃され、日本は復興へと動き出した。しかし、軍用列車、貨物列車が主体であった戦時下とは対照的に、疎開復帰や復員、食料買い出し等によって、旅客需要はうなぎのぼりとなった。その旅客需要に被災を運よく免れ、かつ連合軍に接収されなかった客車だけでは到底賄いきれない状況に陥った。しかし、早急な客車増備が求められるも、GHQ等の政策的事情、終戦直後の生産設備と資材不足、といった経済的事情から、必要数の緊急新製は不可能であった。この時、当時の運輸省は激減した貨物需要により捻出された貨車(無蓋車含む)を客車代用とする等の苦肉の策を講じるも、安全管理上望ましくないことは火を見るより明らかであった。そして、終戦翌年の昭和21年(1946年)から、被災して廃車され、留置されていた客車、電車から使える部品は使えるだけ回収、流用して簡易構造の客車を至急量産して増大する旅客需要に対応すべく、戦災復旧客車が誕生した。当時の車両メーカーは在来車の修繕工事と新製車製造で手一杯だった。そこで、終戦で仕事を失っていた旧軍需工場や転換工場が主力となって復旧工事を行った。(本系列客車に関しては、新製ではなく復旧と呼ばれた)復旧車は、資材不足と落成を急いだ関係から車体形態や構造は千差万別であった。車内設備は、後に述べるように必要最低限度のものであったが、とにかく車両が不足していた当時においては旅客輸送に多大なる貢献をした。

 こうして誕生した戦災復旧客車は70系客車と総称される。本系列は旅客需要への対応を至上命題として製作されたため、客車としては珍しい3、4扉といった多扉、デッキの省略、オールロングシートといった通勤仕様であった。実際に、通勤用に特化した車体構造を持つ最初の鋼製客車である。また、当時の生産設備や資材不足を反映して、窓は2段窓(しかし、ガラスも不足していたため70系に限らず板張りで代用することが一般的であった。)、天井板なし(70系に限らず、灯火系は十全ではなかった)、暖房無しという特徴を持つ。

 やがて、昭和20年代後半に入ると通常の客車製造能力も回復。鋼体化客車と新製客車の新製が順調に進み、さらに東海道線の80系電車の投入によって列車が電車化されたことで客車が余剰となった。さらに旅客需要も落ち着きを見せたことで、劣悪な車内設備しか持たない70系客車は次第に旅客運用からは離脱していった。その後は事故廃車を除く全車が荷物車や郵便車に改造されて製造時には省かれていた暖房等の設備も整備され、小手荷物輸送を支える活躍をした。

昭和30年代後半に入ると粗製乱造の影響により状態が非常に悪化。さらに機を同じくして旅客列車と荷物列車の分離が行われ、輸送の合理化が図られ始めた。さらにさらに、電化区間の延伸による電車化の進展や気動車化の進展により余剰が生じた、鋼体化客車合造車の荷物車化改造でマニ60が大量に落成した。これらに歩調を合わせ、戦災復旧荷物車は第一線を退いて救援車等に一部が再改造され、全国に配備。雑多な木製救援車を駆逐して国鉄末期まで使用されていた。しかし、国鉄末期の車両整理事業で多くが解体。最後まで残ったスエ78 15も2007年に解体された。

 このように、70系客車は太平洋戦争に巻き込まれて一度は死すも、時代の要請に応じて再び蘇り、旅客、郵便荷物、と復興期に多大な貢献をした後に救援車として余生を過ごすという波乱万丈な経歴を持つグループである。

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